ブランド 買取についての意見
しかしいずれにしても、怠学型不適応は基本的には、学校教育が普遍化した社会において広く見られる青年期的現象、学校で青年期の主要部分を過ごすことが規範化した社会では程度の差はあれ出現する現象と見るべきものである。
そして、重要なことは、それがどの程度におさえられているかであり、その当事者にも“自分探し”をしていくことのできる機会と場が用意されているかどうかである。
もっとも、現在の不登校や中退者の数を少ないと見るか多いと見るかは議論の分れるところであろう。
彼らの提起する問題性を学校教育として汲み上げなければならない、ということもいうまでもない。
しかし、その主要な原因は学校の枠糾みにあるとして、それを「学校の自由化」論や「教育の個性化」論に直結し、対応策をその方向に限定してしまうことは、賢明なことでもなければ適切なことでもない。
というのも、怠学型不適応と文化的不適応による不登校は、一方で学校教育の普遍化と豊かさを背景にして、もう一方で価値観と生活スタイルが多様化するなかで、ほとんど不可避的に出現すると見るべきものだからである。
初等・中等教育の構造と機能、その改革の論理と課題、近年の改革動向がはらむ問題について検討してきた。
そのなかで幾度か言及はしたが、正面からはとりあげなかった問題に、「義務教育段階における学校選択の自由」がある。
この問題は、20世紀末のアメリカで最大の争点の一つになっているものであるが、教育の自由化・市場化を官認しているように見受けられる近年の改革動向と、競争的で資本主義的傾向の強い日本の教育風土を踏まえるとき、21世紀前半の日本の教育界でも最大の争点になると予感させる重大な問題である。
公立中高一貫校導入の是非を検討した際に、それは中学校段階での学校選択の自由を承認することへの第一歩になると論じ、その教育上の弊害を指摘した。
そんなに大げさに考える必要はないといわれるかもしれないが、これはきわめて重大な社会的選択の問題であると同時に、一度その方向に踏み出したら、容易に後戻りはできない性質のものである。
学校選択自由化の推進力となりうる基盤は、三つある。
第一は、少なくとも近代以降の市場社会では、教育は構造的に私事に属する営みだからである。
J・ロックの「タブラ・ラサ説」、すなわち、教育は白紙のような存在として生まれた子どもに、知識と技能を植えつけ、固有の人格的存在として形成していく営みであるという説は、教育学の世界では、教育の無限の可能性と重要性を説いたものとしてしばしば言及されるが、それは、「知識の私有原理」を説いたものでもある。
ロックが一連の著作を通じて論じたことは、「人は労働によってその成果を自分のものとし富を蓄え資本を蓄積することができるように、子どもは教育によって知識を自分のものにし知性を高めることができる」ということである。
教育は、この知識の私有原理という個人主義的な行動原理を基盤にしているかぎりにおいて、その行動の自由を制約する原理的な基盤はない。
国民国家や産業社会の要請も、市民としての教養と知性の重要性も、子どもの健全な成長を保証する義務が社会にはあるといった議論も、この行動の自由を原理的に制約しうるものではない。
したがって、中学校までの教育は基本的に地元の公立学校で行うという合意と慣行が崩れると、それに歯止めをかける根拠もなくなる。
第二に、学校選択自由化論は、「教育の再生」「学校の再生」を可能にするというロジックと期待を僣称的に独占する傾向がある。
これまでの各章で見てきたように、とくに中等教育の改革は容易なことではない。
それは、さまざまの矛盾する期待や価値のバランスのうえに成り立っている。
それだけに、そうした矛盾する期待や要請に応えうる改革を行うことは、原理的に不可能である。
にもかかわらず学校選択自由化論は、二重の仕方で、「学校の再生」の可能性を主張する。
一つは、競争原理によって、もう一つは、親や子どもの学校への積極的な参加を確保できるという主張によってである。
教育の顧客である子どもや親が自由に学校を選べるようになれば、各学校は生き残るためにも自己改善の努力をせざるをえないから、学校はよくなるはずだというのが、競争原理による学校再生論である。
他方、親や子どもが自ら選んで入った学校だから、そして、その学校の改善に親や子どもも積極的にかかわることになるから、学校はよくなるはずだ、というのが顧客参加による学校再生論である。
前者の支持者は新自由主義の経済学者や経済界のリーダーに多く、後者の支持者は市民主義的ないし理想主義的な教育評論家に多い。
しかし、この自由化論には、二つの点で問題がある。
一つは、「学校の再生」「教育の再生」を至上の課題に掲げる根拠、学校・教育の現状についての認識が妥当なものかどうかという問題、もう一つは、巨大なシステムとして展開している学校教育の構造と機能を単純化しすぎて、その特質をとらえ損ねているという問題である。
学校選択自由化の推進力になる第三の基盤は、競争的で資本主義的な傾向の強い日本の教育風土にある。
「我が子のために」「よい教育を受けさせたい」という思いは誰もが抱く正当な思いであると言えるが、その思いをどのように具体化しようとするかは、人々の知性と信念のZ学校再生の戦略ありよう、その社会の文化のありように依存している。
「けじめに」で紹介したような選択行動は日本の社会ではけっしてめずらしいことではない。
実際、首都圏で見られる私立中学受験や、高校や大学の受験競争にも、それはあらわれている。
そうした競争を支えているのは、少しでも格上の教育資本・学歴資本を獲得しておこうとする構えと行動である。
この構えと行動様式は、M・ウェーバーが「資本主義の精神」として指摘した特質をそなえている。
現在の楽しみを禁欲して、将来の利益と名誉のために持てる資本(時間・労力・資金)を教育という活動に投資する。
たとえその利益と名誉が不確かなものであろうとも、投資をして格上の教育資格を取得しないかぎり、その利益と名誉を確かなものにする機会を確保することすらできない。
受験競争の過熱を問題視する意見は強いが、それがこうした資本十義的精神の枠内にあることも事実であり、それだけに根強いものと考えざるをえない。
そうだとしたら、学校選択の自由が認められ、そこにすこしでも格上の資格を取得できると見込まれる機会、すこしでも有利な投資先に思える教育機会が存在するなら、その機会を求めて競争が起こることは必至のことであろう。
アメリカにおける学校選択制の展開学校選択制は、1980年代以降のアメリカにおける教育改革の主要なテーマの一つになっている。
その背景として、H・レヴィンは、次の三つを挙げている。
その第一は、親は子どもにどのような教育を受けさせるかを選ぶ権利があるという議論が優勢になってきたことである。
ここでとくに重視されているのは、思想・信条の自由や信仰の自由である。
親は子どもをどのような思想・信条や価値観の下に教育するかを決める権利をもっているように、その点で重要な機能を得た分学校を選ぶ権利を保障されるべきだという議論である。
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